兄の死、つづきのつづき

京都に寄るとよく駅近の東本願寺阿弥陀堂の上がり框というのか階段を上がったところに腰を下ろし、正面に東山、右手に京都タワー、左手に御影堂門を見ながらブログを書く。今日も時間があるのでそうした。とても落ち着く、血圧も下がってるようだ。

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回廊を歩いていると檀家の人達大勢が調度品の金色の置物を磨いていた。聞いてみると年に4回、調度品を藁で磨くそうだ。檀家は金を寄付するだけでなく、労働も提供する。

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最近は世代がわりで檀家が激減しているそうだ。なのでお寺も位牌作り、墓仕舞い、精進落としなどの業者を積極的に紹介してくる。自ずとお布施もはる。檀家も耐えきれず檀家から外れるというわけだ。お寺といえども経済活動の外にいるわけではない。景気に左右され、時代の流れにも対応しなければ成り立っていかないらしい。

オレの田舎は檀家や講組まだまだ健在だが、やはり子供は結婚し都会に家を建て、親は施設へということで大きな屋敷が空き家になってきている。たまに子供達が、と言っても還暦越えだが、草刈りや墓参りに帰ってくるが、言わずもがな寂しい家屋敷だ。

時代には変革の時がある。サラリーマンは高度成長と共に核家族化し、生活は豊かになったが反面いろんなことを犠牲にしてきた。渦中にいると見えない、とても大切なものが失われてきたような気がする。自営業だってそうだ。親のやってきた通りやればなんとかやっていけると信じてやってきた。ところがグローバルの名の下こんなはずじゃ。恐らく資本主義の限界だろう。競争、格差、非正規社員、会社鬱、いじめ、引きこもり、不登校、そして環境破壊、キリがない。こんな時代、世界観、人生観をしっかり持つことが大事、恐るべきは自分のいる状況が把握しきれていないことだ。

まだまだ日本はいい方かも、もっともっと厳しい国もあるはず、なんて思っていると茹でガエルになる。

そんな転換点が今押し寄せてきている。親の残したものを守り抜くのは、気持ちだけはと言い聞かせ、「もはや『戦後』ではない」年に生まれたオレらは、オレらのやり方で立ち向かおうとしてるんだ。

ヤバイ! カミナリだ、そして土砂降り。喧嘩上等。

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兄はいい時に死んだのかもしれない。

おしまい

2019.11.12

京都、東本願寺