京都、岡崎辺り

今回の京都は、岡崎周辺を巡った。岡崎の北西に位置する東山丸太町近くにシャルキュトリーといってハム、ソーセージを専門に扱う妻の知り合いの店に用があったので、その近場の岡崎になった。岡崎といえば、平安神宮、公園、動物園、そして美術館など年齢を問わず見どころ満載だ。南禅寺哲学の道も入るのかも知れない。まずは、平安神宮にお参りして五つほどお願いをした。本来は仏様にお願いすべきことも含まれるが、神仏習合とかなんとか、至って都合がいい。

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次は南に下って京都市京セラ美術館だ。実は京都駅でこの美術館のポスターを見た。なんと中国、秦の始皇帝兵馬俑が展示されているという。こんな機会はない、何はともあれ一見にしかずで来た。京都市京セラ美術館は元々あった京都市美術館と京セラとがタイアップして数年前にリスタートした美術館。なので、京都市美術館の荘厳さと京セラの近代化が相待っているような壮大な建物、なんといっても新しいのが新鮮だ。

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京セラは京都府が誇る売上高ランキングNo. 1企業でかの稲盛和夫氏が率いていた。その稲盛和夫氏が影響を受けた人物に陽明学者の安岡正篤氏がいる。この先生、稲盛氏に限らず名のある企業のトップが師事した、戦前戦後を通じた政財界の指南役。東洋思想の観点から人生論を唱えるいってみれば人間学の大家だ。著書も多数出ていて、正確には覚えていないがこんなのが印象に残っている。親が小さな子供に食べ物を与える。すると子供は自ら食べた後、その残りを親の口に持っていき、さもお母ちゃん(勿論お父ちゃんでもいい)も食べてなんて仕草をする。実体験上、なるほどと思う。元々人間は優しさに包まれて生まれてくるものだ、そんな人生訓だ。人が生きる上で本来持っているものを思い出させてくれる、生身の教科書である。我がサラリーマン人生においてもその著書には幾度となく救われた。中には手垢で汚れ切ったものもある。詳細は今後に譲るとして、人間、一生のうち藁をも縋ることがいくつもある。そんな時に助けられたのは何冊かの本だ。よく新宿ションベン横丁の鳥羽口で焼き鳥片手に読んで、さあ明日もやるかなんて一人気合を入れた。それから忘れてはならないのが妻の一言、これも文句なし。

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兵馬俑の俑は八千体もあるそうだが、現在はまだ1800ぐらいしか掘り出されていないそうだ。まだまだこれからで始皇帝本人まで辿り着けていない。ということはこれからどんなお宝が出土するか楽しみだ。正に歴史はロマンを掻き立てる。そもそも「俑」とは始皇帝と共に墓に埋められた埴輪のようなもの。それ以前にもあったが全然小さいらしく、ここの俑は等身大でそれも一体一体部下の容姿を忠実に再現している。この技術は現在でも再現できない特殊なものらしい。でも、個人的には始皇帝のイメージは焚書坑儒のようにあまり良くない。独裁者のイメージだ。どこそこの大統領に通じるものがある。観終わった感想だが、この展示会、残念ながらなんか物足りなかった。既に出土している1800体が蒼然と並んでいるところを想像していたので、迫力に欠けた。もっともそんなものがここにもってこれるはずは無いのに。

この界隈を歩くといつも思うが、京都らしくない。平安神宮にしても美術館にしても、敷地をふんだんに使っているので、見通しが良すぎて落ち着かない。やはり京都は路地がいい、町屋がいい、木の匂いがいい。

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まだ陽は高いが、王将、天下一品、いつものルートへ。天下一品の名物、大盛り辛子ニンニクが恋しいぞ。

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2022.4.19
いつもの京都にて