会津は賊軍か

会津藩は賊軍か、という問題はいろんな見方があると思う。でも、確実なことが一つある。藩主の松平容保会津戦争鶴ヶ城落城の寸前に、自らの命と引き換えに降伏を決断した、領民を大切にする人格者、領民も容保を慕い会津は一枚岩だ。さらに孝明天皇は容保に絶対の信頼を置いており、容保も拝謁に涙したほど。そんな容保をはじめとする会津が朝廷に自ら逆らうことは絶対に有り得ない。

じゃあなぜ、賊軍呼ばわりされたか。

理由は二つ。一つは容保が京都守護職を引き受けたこと。二つは西郷隆盛の術中にはまったこと。

一つ目、容保が気が進まず国元も猛反対したにもかかわらず松平春嶽の説得に屈してしまった。そもそも容保は断ることができない質らしい。容保の人の良さが藩主としての判断を鈍らせた形だ。尊王攘夷運動で混乱している京都を武力で抑えなければならない危機的任務、そんなのやり手はいない。それを「お受け仕る」と受諾したという。ここから会津の苦悩が始まる。

二つ目は、会津と薩摩は手を組み八月十八日の政変で長州の過激派を京都から追放した。でも、その同志である会津を西郷は見限る。西郷の真の目的は幕府を倒し天下を取ることだ。そのためには下関海峡を握る長州との和睦が欠かせないと考えていた。幕府と会津は一心同体で会津は既に利用価値なしとみなし長州に鞍替えする、そして薩長同盟

そのあとはお馴染みの大政奉還、そして鳥羽伏見の戦いで西郷と岩倉が用意した錦旗、会津は自ら「ああ賊軍になった」とたじろいだそうだ。江戸城無血開城を経て戊辰戦争へと続き、白虎隊などの壮絶な悲劇を生む。

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慶喜は自分本位でことあるごとに部下に任せすぐ逃げる。容保は会津の気質が勝って従順にして責任感の塊。こんな慶喜と容保の関係を思うとサラリーマン人生が蘇る。容保からすれば上司である慶喜はとんでもないいい加減な自分さえ良ければいい上司、責任だけ置いて何処へやら。領民からしたら容保はとても優しいイケメン上司。どこまでもついていきたくなるいい上司、でも長期的戦略に欠けるイエスマン、最後は共倒れ。今も昔も変わらない。

結論は、会津は朝廷に刃向かうことはない。まして錦旗など持ち出すなど恐れ多くて思いも及ばない。官軍、賊軍、それ以前の問題だ。でも、勝てば官軍的には禁門の変のように会津官軍、長州賊軍であったりする、つまり見方、考え方で官軍にもなり賊軍にもなるということだ。

残念なのは会津薩長土肥のように志士が出なかったこと。志士にも色々いるが少なくとも会津のように受け身で無策に陥ることはなかっただろう。致命的なのは容保の欠点を補う人材がいなかったことだ。会津ならではの上には絶対に逆らわない教育がそうさせたのかもしれない。

因みに、どうも司馬遼太郎の「竜馬がくる」から多大な影響を受けている。薩長同盟にしても龍馬が自ら仕掛けたと思っていたが、西郷の発案だったようだ。有名な船中八策だって龍馬一人で考えていた感があるが、これも旧幕府が公武合体の上、これからの世直し案で検討していた案がならかの理由で龍馬に流れたという。そう言われれば、あんな時宜に叶った案、一人では考え付かないだろう。小説、ドラマは歴史を歪める。ミーハーな日本には真実など無きに等しい。磐梯山だけが知っている。

上記の説「偽りの明治維新(星亮一著)」に則っている。

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この本読んで又、会津に行きたくなった。

おしまい

2010.1.13

新宿、五十鈴