京都、木屋町

今、京都の木屋町通りを南から北に、五条から四条へ上がっている。並行して流れる高瀬川の紅葉の赤がとても綺麗だ。ホテルが五条を下った高瀬川沿いなのでチェックインしていつもの四条の王将へ向う途中。因みに京都の地名は南北は下る上る、東西は入る(イル)という。

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木屋町通りの五条と四条の間は閑静で店も料亭みたいなのが多く一見さんお断りの敷居の高い店が連なる。たまに塩ホンモンの店があり、なんか安心する。四条を過ぎると急に盛り場的でとても賑やかだ。

四条木屋町から鴨川にかかる四条大橋を渡って祇園、花見小路に入る一帯は学生時代、バイト先の成り金オーナーによく飲みに連れて行ってもらった場所だ。

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70年代後半、スナックとクラブの中間的なサパークラブが流行った、酒はレミーマルタン。学生などとても行けるところではない、いい経験をさせてもらった。

バイトは仁助っていう屋号のカウンターだけの小さな鍬焼店、オーナーが割烹料理屋の友人からノウハウをもらい見様見真似で始めた店だ。鍬焼きとは鉄板に食材を乗せ、その上から特注の小さな鍬を置いて焼く、要は鍬で蓋をしながら焼く鉄板焼き屋。客の前で焼く担当はオレ、他に料理担当のチーフ、二人で切り盛りしていた。お客さんは祇園や花見小路からくる仕事終わりのサパークラブのホステスさんとその客。つまりオーナーに連れて行ってもらっていた店はそんなホステスさんの勤める店、持ちつ持たれつってとこだ。オーナーには、バイト代よりはるかに高い飲み代を使わせてしまった、更にはお年玉まで。オーナーの心意気か、バブルの成せる技か、いずれにしても感謝。

学生の本分をわきまえずこんなバブリーを経験してきた。が、やがてバブルが弾け、サラリーマン時代は失われた20年へ。普通、キチンだのコンドラチェフだの景気の波は好不況を繰り返えす、だが、バブル崩壊後は中々浮かび上がらない。コンピータというとてつもなく大きな技術革新がありながらだ。

思うに理由は二つ、リーマンショックとさらにバブルのトラウマからか企業がリスクを避ける内部留保だろう。この辺か資本主義が何やらおかしくなってくる。

儲かっているのに末端まで回ってこない。残業はするな、人を減らせ、売り上げを上げろ、そして永遠の目標、対前年比利益増。これじゃ何かを犠牲にしなければできっこない。犠牲は、同僚や部下だったり、家族団欒だったり、健康だったり、心だったりする。自分を殺してうまく立ち回らないとその他大勢になってしまう。パワハラ、セクハラ、鬱、こんな言葉が流行り始めたのはこの頃からだ。

近年、学者により資本主義の終焉が叫ばれている。これが本当なら世紀を跨いだ大きな転換期に我々は生きていることになる。産業革命に端を発し、高度成長から飽食の時代へ、そして格差社会、更にはシンギュラリティ。ポスト資本主義はどんな姿をしている。これからの子供達を考えると心配の種は尽きまじ。

そんなことを考えながら歩いていると、向こうから着物姿の一見艶やかな女性二人が歩いてくる。でも、歩き方がなんかぎこちない。近づくと日本語にあらず。やはり京都は、裾元の乱れを気にしながら内股で歩幅を小さくして歩く日本の女性だ、美しい。

明日は兄の思い出がいっぱいの岡山へ、行きたくない。

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おしまい

2019.12.10

京都、木屋町通