オレたちの見沼田んぼ

我が家の近くに日本が誇る遺産、見沼田んぼがある。さいたま市見沼区の広大な沼地を利用してできた1260haの田畑だ。

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何故日本が誇るかというと2018年に現天皇陛下、当時は皇太子だった浩宮殿下が見沼田んぼの歴史的役割についてメキシコで開催された世界水フォーラムで講演され、その先進性について世界に向け発信されたからだ。

天皇陛下はイギリスに留学されていた時、テムズ川と水運について研究されていて、首都ロンドンの整備にテムズ川をはじめとする水運が如何に貢献したかを述べられる。帰国後、日本にも同様のことがあることを知られた、それがさいたま市見沼田んぼと江戸との関係だ。講演の最後に世界の水問題は喫緊の課題で、その解決には地域地域の歴史や伝統を尊重しなければならない、見沼の現地に立つと水問題を考える方向を示してくれると結ばれた。さいたま市在住者としては感激だ。

その見沼と江戸との関係をブログに残したいので少し長いが書いてみた。

徳川家康江戸幕府を開いた時、利根川と荒川は合流して東京湾に流れ込んでいた。大河が二つ合わさるのでその威力は凄まじかったろう、なので頻繁に氾濫が起きた。そのため江戸を水害から守る打開策として合流を解消し、利根川は東寄りに寄せ(東遷)太平洋へ、荒川もまた西寄りにし(西遷)川を作ると言うとてつもない手段に出た。

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そしてその開いた跡地の池沼地帯では、農地のために池沼の水を排水する落川(おとしがわ)や、農業用水を貯めておく溜井(ためい)という溜池みたいなものがいくつも作られた。見沼でも「八丁堤」という堤で見沼へ流れ込む水を貯留した、これが見沼溜井。

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その後、八代将軍吉宗の時、財政再建のため新田開発が求められる。そんな折、見沼周辺は見沼溜井の水のお陰で既に新田開発が進んでいたが今度は見沼溜井の水だけでは足りなくなった。そこで新たに利根川から用水を引き(見沼代用水といい、下流は荒川に通じている)田んぼに大量の水を供給できるようにした。同時に見沼溜井は干拓し新たな田んぼとしてスタートし、これが見沼田んぼの誕生だ。また排水のために新たに排水路(芝川)も設けられた。

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凄いのは、東西に2経路ある見沼代用水は元からある川の下に水路を通したり、川の上に橋をかけて通したり、当時としては計り知れない人と金がつぎ込まれた。家康の江戸への執着が脈々と受け継がれている。

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そのお陰で、見沼溜井にできた新田、見沼田んぼは毎年5000石もの年貢米を生産する土地に変貌。1両13万円、1両=1石として6億5千万円だ。

つまり二つの川を切り離し、開いた隙間に田んぼを作り、その田んぼへ水を引くために用水路を作り、田んぼの水を排水するための川を作ることで、江戸を水害から守り、6億5千万円の米を毎年生産する仕組みを考え実現したということ。世に言う吉宗が米将軍と言われた所以、享保の改革の一環だ。

浩宮殿下の講演にはもう一つ、画期的な取り組みが紹介されている。吉宗の頃に広大な見沼田んぼと一大消費地である江戸とを舟運で結ぶことが考えられた。見沼代用水は下流に行くに従って水量が細ってくるので舟は浮かべられない。一方、見沼田んぼの排水路芝川は下流に行くほど流れが豊富になる、ということでこの二つの水路を見沼で合流させ船が行き来できるようにしょうとした。だが、大きな問題が立ちはだかった。水位に3メートルの高低差があったのだ。これを克服するために新たに掘削した水路(見沼通船堀)に水位差を解消するための仕組みを作った、閘門(こうもん)という。

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閘門とはテムズ川パナマ運河などで取り入れられているパウンドロックというシステムのことで水路をいくつかに区切り水位を増減させ水平にし舟が通れるようにするためのもの。

これにより見沼田んぼからは食料が、江戸からは肥料や魚が、なかでも肥料は屎尿で大切に扱われていたそうだ。専用に運ぶおわい船というものも建造され、今で言う循環型の社会が成立していた。これは当時海外では屎尿は川などへ垂れ流しだったことなど考えると画期的だった。結果江戸の清潔さは世界一。

今の見沼田んぼ減反の一環でほとんど畑が一面に広がっている。そこでは農作物や木々が栽培されていて、人間の所作と自然が一体化し、用水路沿いには春は桜、秋は曼珠沙華が繚乱だ。

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オレたちはとんでもない遺産を受け継いでいる。浦和に住んでいるものとしては見沼の知識は外せない、というより天皇陛下の世界に向けた講演がなんだったか日本人なら知るべきだろう。インバウンドで日本を訪れた外人に「天皇が皇太子だった頃講演した例の見沼田んぼのこと教えて!」なんて聞かれて答えられない日本人のなんと多いことか。オレも目と鼻の先に20数年間住んでいるが、真面目に調べたことない、何をしてきたんだか。

(さいたま市見沼たんぼホームページ参照)

おしまい

2019.10.6

岡山へ向かう電車の中で