日本の醜さについて

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妻が「日本の醜さについて(都市とエゴイズム)」という本を勧めるので読んでみた。著者は井上章一氏という人、少し前に話題になった「京都ぎらい」を書いている、京都は好きなので読んでいないが。

内容は西洋、特にイタリアをはじめとするヨーロッパの街並みと日本のそれと比較しながら、建築することの自由さに焦点をあて日本の醜さを論じている。ヨーロッパは都市景観を大事にし、そのため外観上の規制が強く個人の自由は大きく制限される。一方日本は安全面の規制は強いが外観に関しては地権者の自由がまかり通る。

著者は、よく西洋人は自己主張が強く日本人は協調性を貴ぶと言われるが建築に関しては逆という。自己主張の強い西洋が規制に甘んじ、協調性の日本が周りに配慮もなく建てたいものを建てるという矛盾だ。それをドイツの古城に似せたラブホテル、くいだおれ太郎、戦時中のバラック建築などの具体例であげ検証し、近代化の名のもと利益だけを追求した果の無秩序、エゴにおおわれた日本を糾弾する。そしてヨーロッパにおいては、歴史的建造物、街並みを守ることを理由に戦争すらやめてしまうイタリアなど何故ヨーロッパの国々は建物外観をそれほどまでに大切に保全しようとするのか、「斯界の人たちに検討してもらいたい」と問題提起する。

そこでオレ自身、斯界の人ではないが、ルソーの「社会契約論」にその回答があるような気がするので勝手な解釈を書き留めておきたい。

社会契約論はフランス革命の理論的根拠となった思想で民主主義の聖典だ。その中でルソーは自由というものを二つに定義している、個別意思と一般意思だ。個別意思とは自分のやりたいことをやる自由、でもこの自由だけだと誰かとぶつかり国同士の戦争へと激化する。そのため個人は個別意思より公共性を優先させる一般意思で調整を図る。自分のことだけではなく全ての人のことを考え個人の自由に制限をかけるものだ。その考えは法律によって具体化され、根底には道徳があるといっていい。

この一般意志こそ共同体である国の根底にあるもの。なので公共のために個別意思を犠牲にしても守らなければならない理性としての拘束力があり、それが法律として機能し道徳として心の底から湧き出す。個人はこの共同体と社会契約をし一般意思を実現し共同体として結ばれる。そして一般意思と個別意思を合わせて本当の自由を手にする。

ここで本題に戻ると、ヨーロッパの各国は建物の外観や周りの景観を公共財と考える。個人は歴史的景観を損ねる勝手なことはできない、そこに一般意思が見て取れる。日本は外観や周りの景観を意識することなく好き勝手に家を建て、事あるごとにスクラップアンドビルド、法律もその点を考慮して立法されていない、只々経済最優先の国だろう、個人も企業も。

そういえば、オレの住まいも20年前はまだまだ緑が多かった。緑の中、子供を自転車の後ろに乗せ幼稚園へ送り迎えしてきたが今は色んなメーカーの建売住宅だらけだ。緑をなくし、古いものを壊し、売れるものをつくる。オレのマンションも建築当時は景観を損ねたことも間違いない、勝手なことを言っている。

 

おしまい
2018.10.17
浦和