もうひとつの高校野球2

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勝つことが第一、星稜の松井の5敬遠が象徴的だ。選手自身は、勝負したい、打ちたい、投げ勝ちたい、そのために苦しい練習に耐えてきたのに何故。監督の一声で一瞬の夏が奪われた、「敬遠」。勝つためだしょうがない、どこか相撲で横綱が立会に変化するのと似ている。でも横綱はプロ、松井達はアマだ、単なる高校の部活動のお披露目だろう。甲子園勝利監督、凱旋パレード、そんな大人の打算が何かを狂わす。

先日テレビで松井5敬遠の時の同窓会をやっていた。涙無くして見れない、これからの人生に期待を膨らませる高校時代のはずが心の底に傷を負う、それほど甲子園は若者の人生を狂わしていた。それぞれのメンバーの思いは複雑だ。敬遠が取りざたされているが、その影で自分が打っていれば、あの時ミスしていなければ、それぞれが自分を責める。あの清原が何かにコメントしていた、「もし俺が松井のように敬遠されたら他のメンバーが打って勝っている」打てなかった星稜のメンバーにとってなんと残酷な言葉か。試合後、松井が他の選手にこう言ったそうだ「ゴメンな」。敬遠された松井は悪くない、でも松井はこう思ったはずだ、俺が敬遠されたことで他の選手にプレッシャーをかけてしまった、松井らしい。

聖域甲子園、盛り上がる裏に残酷な物語がいっぱいだ。そんなことマスコミは取り上げない、だからみんな表ズラで観戦する。優勝候補と期待されればされる程、一瞬の結果が重くのしかかる、そしてその後の人生に大きく影響する。水面下で若者の心が砕け、さも何もなかったかのように時は流れる。ましてプレイヤーズ・ファーストなどどこ吹く風、やっぱり日本は根性物語。この一球で燃え尽きろ、なんて雰囲気、これに周りは熱狂する、いつか来た道だ。

驚いたことに食トレーニングというものがあるらしい。効率的な身体作りのためのメニュー、何でも2リットルの容器に敷き詰められたご飯、選手は薬を飲むのと同じと言っていた。車にハイオクを入れるのと一緒だ。車は機械だからドンドン食べる、でも人間は落ち込んだら食せない、でも食すノルマがある、無理して食べる、トイレで吐く、想像に難くない、餌か。人間一生を通して楽しく食べることは一番の活力源だ。食べるだけではない会話も大切。その大切さを教えるのが食育だ、まして学校は教育期間。そんな食の大切さを学ぶ時期に何が食トレーニングだ、時代錯誤も甚だしい、子供の心を大人がビジネス化している証拠だ。本来は勉強があって部活動がある、スポーツで人間性を育む、それを糧に生きていく、それが高校時代だ。

つづく

2018.8.26

浦和

もうひとつの高校野球1

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何かがおかしい、若者を取り巻くスポーツ環境だ。記念すべき100回目を迎えた高校野球大阪桐蔭の優勝で幕を閉じた。高校野球は感動を呼ぶ夏の風物詩、終戦記念日の黙祷も毎年目にするところだ。一方でマスコミの報道はエスカレートし、甲子園が聖域化され、球児にはプロの登竜門。若者は東大に入るが如く頂点を目指し、スーパースターを夢見る。家族はのめり込み、学校は必勝を監督に託す。監督は成績如何で進退にも影響するので勝つために算段し手段を選ばなくなる。さらにトーナメント、サドンデスの制度が拍車をかける、一発勝負だ。予選から万が一を考え、優秀な投手が必然と連投する。結果想像絶する投球数、肘に違和感、靭帯損傷、今後の野球人生に重大な影響を及ぼす。仮にプロに進んでもその負荷は地雷と隣り合わせだ、徐々に身体を蝕んで行く。当たり前だ、人間はサイボーグじゃない。結果野球で生きて行くはずがあまりに早い第二の人生へ。何が悪い、決まってる大人の責任だ、こんなことが書いてある本に出会った。「甲子園の病」氏原英明著、新潮新書から最近出た。

著者は言う。日本にはプレイヤーズ・ファーストがない。今年からタイブーク制度が導入されたが、これにしても延長引き分け再試合の増加という運営上の問題として捉えている。球児の健康面の配慮を第一義としての決定ではない、将来ある若者をいかにして育てていくか本来の大人の役割を果たしていない。常軌を逸した投球数、史上何番のホームラン本数、マスコミ受けする話題ばかりが取り上げられ、見るものを熱狂させる。本来の健康的、教育的観点を蔑ろにする勝利至上主義、「壊れる投手、怒鳴る監督、酷暑の日程、考えない選手・・・このままでいいのか?」
つづく

2018.819
浦和

芥川賞

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年に二回、文藝春秋芥川賞受賞作が全文掲載される。毎回買って読むがその読後感、いつも期待はずれ、というより頭がついていかない。なので途中でやめてしまうこともしばしばだ。その度読解力の無さに落ち込むが今回の受賞作「送り火」は最後の一コマ手前まで引き込まれた、理由は描写力。

ストーリーは津軽地方の山間集落の中学校に父親の転勤で転校してきた歩という3年生が主人公。3年生12人の内、歩を含め6人の物語だ。集まれば燕雀という花札の勝負で負けを一人選び罰ゲームが始まる。その罰ゲームは、回転盤、角力、透明人間、彼岸様、そしてサーカスへ、悪質で危険、生死にかかわるものに徐々に暴力化する。そんな中、晃というリーダー格が燕雀でいつも胴元をやりイカサマをする。標的になったのが稔という少年だ、負けはいつも稔。伝統ある悪がきの儀式という大義名分に何故かみんな拘束される。

卒業間近、そんな罰ゲームを先輩格の卒業生が仕切きる場面、晃も歩も稔も従うしかない。ここでも稔が罰の対象となり、踏鋤という鋭利な農具を使ったゲームで血みどろにされる。さすがにこのままでは殺されると稔は逆ギレし、持っていた刃物で反撃に出る。初めは仕切っている卒業生が一人犠牲になり、次の反撃の対象がいつも陥れられていた晃と思っていたところ歩本人に襲いかかり歩は何故自分なのかと手足に深傷を負いながら懸命に逃げる、そして意識を失う。朦朧としながらもふと気がつくと藁人形が三つ並べられ順番に火がつけられていた。それは藁人形ではなく人間か、というところでいきなり終わる。

青森のリアルな自然、思春期の仲間と暴力、転校生が仲間に溶け込んで行く過程、そんな情景を見事に描き出している。特に山、川、道祖神田圃、畦道、稲穂、農家の蔵、農具、祭り、光の陰り、木造校舎、田舎の自然と生活感が行間から滲み出す。作者が青森出身ということもあるが実体験がないと中々書けないし、読む側もそんな環境を経験しているかどうかで感じ方も変わる。他にも、集落一帯の景色、茅葺き屋根の老婆との触れ合い、蝉の幼虫から成虫へ、リアルな表現が際立っている。

でも冒頭で一コマ手前って書いたけど、最後に「つづく」としたほうがいいくらい突如として終わっている。もう少しオチというか納得感が欲しかった。でも文学、特に純文学ってこんなもんだろう。考えてわかるものではなく感じろということだ。そもそも作者が苦労して一言ひとこと言葉を選び、何かを表現しようと足掻いて作品化したものをたかだか一回読んでわかろうとすること自体おこがましい。特にオレみたいな読解力にハンデのある奴には尚更だ。感じられなければ感じられるまで何回も読む、これが大切、芸術一般にいえることだ。

それから感じ方も千差万別、なので書評を読んでいる方が面白いこともある。以前の石原慎太郎氏の書評は辛口で痛快だったが選考委員を引退した、残念だ。

もしこの小説にテーマがあるとすればなんだろう。「度胸試し、殺意なき殺意、自然と人間、視点によって様々だが閉鎖された環境で育った若者達のエネルギーが暴力って形で発散する、ってとこか。読後感、80パーセント!
おしまい

2018.8.20
神戸から東京へ向かう東海道線

 

ポピュリズムとシステム1

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スッキリした。ある国の大統領が就任して以来気になっていたポピュリズム。世界的に言葉が一人歩きしている感があるがこの本のおかげで理解できた。薬師院仁志という社会学者が著した「ポピュリズム」だ、新潮新書から出ている。民主主義を基本におき各国のポピュリズム政党やポピュリストを挙げその共通点からポピュリズムの定義化を試みている。民主主義の入門書といてもいい。忘れないためにいくつかのポイントを覚書しておきたい。

ポピュリズムの意味は様々だ。人民主義、大衆煽動主義、民衆主義。でも、何とか主義で理解しょうとするととてもややっこしい。ポピュリズムポピュリズムとして定義付けした方がしっくりくる。

ポピュリズムは選挙に当選することを自己目的化した一つの手法に過ぎない。時の政権から一票を勝ち取るために民衆の置かれた不満や不安を煽り、時にはデマを流し煽動する。そこに右や左、リベラルやソシアルはない。著者は言う「民衆の脳みそに働きかけるのではなく心情に働きかける。人々に不満を焚きつけると同時に自らを何か大きな構想を抱く改革者だと印象づける。他者を否定することによってしか自分を肯定することができない」。

キモは間接民主主義だ。我々人民は選挙で議員を選び政治を委ねる。なので議員は選ばれるに足る人格、知識、教養を持っていなければならない(本書は「エリート」と呼ぶ)。選挙でエリートを選ぶ側にも一定のそれは要求される。でも、人民は皆そうとは限らない。そこに間接民主主義の落とし穴がありポピュリストのつけ込む隙がうまれる。一部の大衆はポピュリストの発したエリートに対する一言、例えば「減税」に反応する。さらに著者は言う「利益誘導で減税といった政策を選挙に利用する政治姿勢である。民意を代弁する態度ではなく、民意を作り上げる行為だ。民意に沿うことで支持を伸ばすのではなく、宣伝や演出によって世論を都合よく操作し、民意の方を自分たちの主張に一致させるのである」。

いずれにしても、これから世の中を渡っていく上でポピュリズムの理解は必須だ。何処そこの大統領の一言でこれだけ世界経済が翻弄され株価が面白いように波打つ。市場主体であるはずがいつの間にやらデマゴーグ主体、そんなことも気づかず株価の増減に一喜一憂する。今日明日のルーチンも大事だけど、それがのっかっている社会というお椀はもっと大切だ。気がつかないうちに流される、どんぶらこ、どんぶらこ、と。

このポピュリズム、洗脳されやすいタイプがいる、システム1の人だ。以前のブログでも書いたが、人の思考、認知の仕方には二通りある。システム1は物事を即断的、直感的に判断しその根拠であるエビデンスの質にとらわれない、システム2は一度自分に立ち返りあらゆる観点から冷静に判断しようとする。そうハリネズミとキツネだ(ブログ「トンボのような大きな目のキツネ」)。いずれにしても、政治家やマスコミの主張は冷静に聞くことが重要だ、システム2の目で一票を。

おしまい

2018.8.16
初盆の儀式がやっと終わって
岡山

色彩の同時対照の法則

「色彩の同時対照の法則」というのがある。色の三原色なら誰でも知っている(三原色には絵の具と光で違うがややっこしいのでここでは赤青黄とする)、でもその三原色にこんなの法則があるとは、教養の無さが驚きを産む。「赤青黄の1色と残りの2色を混ぜてできた色(赤と緑、青とオレンジ、黄色と紫)は互いに引き立てあうという理論だ」とOFFって雑誌に書いてあった。色彩理論に忠実なゴッホの絵によく見られるらしい。フランスの科学者が発表したものでオレみたいな色痴にはモッテコイ、洋服のコーディネートなんかにも使えそうだ。

そんな事前知識を持って3度目の上野の国立西洋美術館に行ってきた。まず、赤と緑、これが一番多い。

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次に青とオレンジ、

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最後に、黄色と紫、これが一番少ない。

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こんな具合の鑑賞法も面白い。

ところで、音には絶対音感ってあるけど色には聞いたことがない、でも、あるような気がする。単音や和音を聞くだけでドだのAmなどと聞き分けることができるように色にも、例えばこの色とこの色を混ぜると何色になるというように頭の中に思い浮かぶ、そんな能力が絶対色感だ、と勝手に言っているだけ。

かのゲーテは出来上がった詩に新たに言葉を追加すると他の言葉が死んでしまうと言った。同じ芸術として詩を絵画にあてはめると、完成された絵画に後から色を追加すると他の色が死んでしまうことになる。芸術が感動を与えてくれるのは、オレなんかにはわからない、色彩の同時対照の法則のような決まりごとが根底にあり、絶対音感や絶対色感で作者がバランスをとり芸術化するからだろう。観る側も覚悟がいる、そんな心構えで絵を観たい。

おわり

2018.8.2

浦和

トンボのような大きな目のキツネ

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前回書いたブログ「知ってるつもり」に続く土方奈美さんの翻訳本を読んだ。「知ってる」より前に出版されたもの。題名は「超予測力」、驚いたことに「知ってる」同様、認知科学の本でさらに内容もそっくりだ。

人や企業は未来を予測し戦略を立てる。なのでその予測の正確さ如何によって人生や業績に大きく影響を及ぼす。ここまでは誰でも考えることだが、この本の優れているところは予測した後の検証だ。予測はするがその結果の検証しない日本人のなんと多いことか!、予測が外れたことを受け入れない、過去のことだ、なんて勝手な理由をつけてその失敗を活かそうとしない。典型的なのは会社で社長が変わると方針が変わる、さらに社長が変わると元に戻る、つまり何も検証しないで同じことを繰り返す。社員も負けずに不毛に精力を注ぐ。

この本は人間はどこまで予測可能かを数ある実験のエビデンスから解き明かそうとする本だ。「知ってる」と似ているといったのは人間の思考回路を二つに区分している点だ。「知ってる」はそれを直感型と熟慮型に分けてるが、「超」はシステム1、システム2に擬える。システム1は物事を即断的、直感的に判断し、またその根拠である証拠の質にとらわれない、システム2は一度自分に立ち返りあらゆる観点から冷静に判断しようとする。システム2を多用しある一定の方法を踏襲すれば超がつくほどに正答率が高まるという予測の指南書だ、一定の方法も書かれている。

本の中でギリシャの詩人の言葉が引用されている。「キツネはたくさんのことを知っているのに対し、ハリネズミはたったひとつの重要なことを知っている」どういうことかというと、ハリネズミは特定の心情に固執する、キツネはより折衷的な専門家。ハリネズミは一つしかないメガネで物事を即断してわかったような気になるシステム1、複数の視点を統合するキツネはシステム2に例えている。もう一つユニークなのは、視点の数の例えにトンボの目を引用していることだ。トンボの目は人間と同じ二つだが表面は片目だけで三万個のレンズで覆われている。何万という情報が常に脳に送られてそれを統合し高速で飛んでいる虫を捕える。なので、ハリネズミのようにいつも一つしかないメガネを通して見る世界観とトンボの目を持ったキツネの世界観では人生観まで変わってくる。これは常に頭に入れておきたい教訓だ、中々実践できないが。

いずれにしても座右にしたい本の一冊だ。前回、文章が長いとご意見をいただいたので今回はこれでおしまい、まだ長いか。
おわり。

2018.7.27
渋谷

 

「知ってるつもり 無知の科学」を読んだ。

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「各界著名人絶賛!」なんてブックバンドを見たら買わずにいられない。何度悔やんだか、「過って改めざる、是れを過ちという」の孔子の言もなんのその、また買った。というわけで「知ってるつもり、無知の科学 (スローマンとファーンバックという2人の共著)」という本を読んだ、大当たり。

「人間は無知なのに自覚が無い」から始まる、ドキッとした。毎日、トイレやズボンのファスナーを当たり前のように使っているが、その仕組みを聞かれるととんと答えられない。驚くべきは自分では理解しているつもりでいること、理解度の過大評価だ。これを著者は「知識の錯覚」と呼ぶ。でも答えられないことで生活に支障はないし、知ろうともしない、これには理由がある。

訳者のあとがきをかりれば、「人間の知性は、新たな状況下での意思決定に最も役立つ情報だけを抽出するように進化してきた。頭の中にはごくわずかな情報だけを保持して、必要に応じて他の場所、たとえば自らの身体、環境、とりわけ他の人々の中に蓄えられた知識に頼る。人間にとってコンピュータの外部記憶装置に相当するものを、著者らは知識のコミュニティと呼ぶ。知識のコミュニティによる認知的分業は文明が誕生した当初から存在し、人類の進歩を支えた」というものだ。

人間は無知でその無知を自分で自覚していない、でも文明は進化した。何故か、確かに自分は無知でわずかな知識しかないが、足りない分を周りの環境から取り入れる。主たる環境は他の人の知識だ。世界のありとあらゆる知識を個人の頭の中に蓄積することは不可能だ、身近な自動車の専門家でさえ1人で全てを理解しているものなどいない。人間の知識の量など70年間で1GBだそうだ。そんな人間が文明を作り上げてこられたのは集団の力による、つまりコミュニティだ。コミュニティの中でそれぞれが自分の役割を忠実にこなし、総和以上の力を出す。これを裏付ける研究成果が書かれている。ある研修の話だ。

一つの研究課題を複数のグループに与える、その時各グループには違った専門的観点から研究させる。研究に際してそれぞれの専門家や文献資料などの力を借りながら知識を向上させる。次にその各グループから一人ずつを集め新たなグループを結成し、先の課題に関連する新たな課題を与える。するとそれぞれのグループが異なる専門知識を持ったメンバーの集団になり高度な課題解決につながる。ここでいうグループは正に知識のコミュニティだ。知性は個人の頭にあるのではなくコミュニティにあるとも著者は言っている。何回も研修を受けてきたがこんな研修受けたことないぞ。

今流行りのAI人工知能が人間を超える、いわゆるシンギュラリティが話題になっている、この本はそれに重要な示唆を与えてくれる。著者は言っている「人間とコンピュータの違いをより端的に示すのは、人間は思考するとき、メモリから読み書きする中央処理装置を使わないという点だ。人間は自らの身体、自らを取り巻く世界、そして他者を使って思考する。頭蓋骨によって脳の境界は定められているかもしれないが、知性に境界はない。知性は脳にとどまらず、身体、環境、そして他の人々をも含む。このため知性の研究は、脳の研究だけにとどまるものではない」と。知性は脳の中で情報処理をするだけでなく、身体、外部環境と強調しながら記憶し、推論し、意思決定をする。なので、脳の中だけを調べてもダメ。知性は脳の中にあるのではなく、むしろ脳が知性の一部なのだという。知性は情報を処理するために脳も使えば他のものも使う。ひとつのコミュニティが自分の知識と他の人の知識を結集しながら目的を達成しようとすること(著者は志向性と呼んでいる)はAIにはまだまだ理解できないことだと思う。

さらに著者は言う、人は思考するとき直感型か熟慮型に分かれると。直感とは自分の無知を自覚していないで短絡的に物事を判断する人のことだろう、感情的と言い換えてもいいかもれない。熟慮型は自分の無知を自覚し周りに質問して知識を借り冷静に判断する。知識のコミュニティ内でいえば、直感型に修正をかけるのは熟慮型の人だということだ。ここで知識のコミュニティが生きてくる。

大切なのは、まず無知は避けて通れないので自分の無知を自覚すること。その自覚が無いと厄介だ。浅薄な知識と知性をもって知識の錯覚のもと暴走する奴がいる。そんなことにならないために知識のコミュニティの大切さを考え直さなければならない、今だからこそ。注意すべき点は三つ。一つは自分の専門性を向上させること、二つ目は全体が網羅できるような一般教養を身につけること、三つ目が他の人たちの専門知識を尊重することだ。三つ目は二項対立的な争いをなくすための人類の永遠の課題だろう。

とてもいい本だ。仮説とエビデンスの繰り返しでとても説得力がある。文章もオレ流絶対条件の歯切れの良さも抜群。訳者は土方奈美さんという翻訳家だが非常に上手いと思う。本末転倒かもしれないが土方奈美さんの翻訳本をもう一冊読んでみよう、こんな本の読み方があってもいい。

この本に書かれていることは、当たり前のようであってなかなか気がつかない。でも日常生活に当てはめてこの本に向き合うと言い得て妙。妻の質問に知ったかぶりで答える、さらに質問が来る、悪あがきする、窮する、化けの皮が剥がれる。直感型と熟慮型の違いだ。

ボーっと生きてんじゃねえよ!」チコちゃんに叱られる
おわり

2018.6.6
何十年に一度の豪雨の中で。
岡山・美咲町